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わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス


わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書) 副題にある「カーニヴァル化」というのは、鈴木謙介さんが前著『カーニヴァル化する社会』で指摘した、現代の若者は「瞬間的な盛り上がり(カーニヴァル)」に生きているとする議論をふまえている。
カーニヴァルにはサイクルがある。
なんかネタはないかなあと探す「模索期」、ネタに食いつき話題が盛り上がる「生成期」、ひたすらネタをもとにしたコミュニケーションの連鎖を楽しむ「カーニヴァル」、そして、自分たちの盛り上がりって根拠なんてなかったと気づいて落ち込む「倦怠期」。
これをそのままコミュニケーション論、あるいは若者論的に読み込むと、ネタを中心にめぐるだけのカーニヴァルは、ネタを生み出している世界そのものへの疑いには至らず、それを絶対とする「宿命観」を若者に植えつけているように思える。
でも、カーニヴァルという現象だって、消費社会の成熟を突破し、理想の社会につながる可能性があるんじゃないか。
あるとすれば、それはどういう理屈によっているのか。そしてどのような仕掛けによって生み出されるのか。
この「巨大ビジネス」の姿をあぶりだそうというのが本書の挑戦だ。
ところで、モノが売れないといわれる現代でも、大ヒット商品はある。
問題はその実感がないことだ。たとえばケータイ小説が百万部を超えて売れているといわれても、ぼくたちはその実感を抱けない。これは、「それ系が好きな人には売れている」という思いがどうしてもついてきてしまうからだ。
一昔前、たとえば『窓ぎわのトットちゃん』がベストセラーになったと言われるとき、ぼくたちはそこに実感を抱いていた。自分も買うかもしれないという思いがあるからだ。ということは、ぼくたちは「大衆」を形作っていたんだよね。
だけど、80年代から90年代を経て、ぼくたちは「わたし」が欲しいものを買えばいいという消費観を身につけてきた。ある人が何かを買ったとしても、それはその人が好きなものであって、自分のものではない。その結果が、ヒットに対する乏しい実感につながる。
ところで、「個」の時代といわれても、ぼくたちはそれでもつながりたいのではある。じゃあ、つなぐものは何かと言うと、これも消費でしかない。「わたし」はこれを買った。「あの人」もこれを買った。自分たちは同じ価値観を共有している、という喜び。そして、自分も「これ」を買おう、同じ価値観を持っていることを伝えようという思い。
その段階で、消費行動は、ニーズを離れ、価値観を伝え合う「ネタ」になっている。その先は、カーニヴァル。
このあたりの変遷を伝える、「共同体」から「共同性」へという見立てはおもしろい。
かつて人と人は、ムラ社会に代表される「共同体」でつながっていた。それは一心「同体」の世界で、ちょっと息苦しくもある。その息苦しさを解放しようとしたのが近代民主主義なんだけど、結果的に、共同体そのものの崩壊につながった。
それでもつながっていたいぼくたちは、なんとか理想の共同体を追って、「つながっている」という感じを求める。実態を伴わない、「共同性」へ。
で。カーニヴァルとしての消費を生むためのコツはいくつかある。模索期を狙うとか、協力者として振舞うとか。
問題は、そうして生まれたカーニヴァルを楽しんでいる「わたしたち」をさらに拡大できるか、だ。そのとき、「わたしたち消費」はマスとなる。
第五章でヒントが述べられている。
たとえば、文脈を変えること。ケータイ小説ってぼくは読まないけど、「21世紀の言文一致体」という文脈で紹介されると、ちょっと読もうかなあと思ってしまう。あるいはブログパーツとして配信されるなら、ヨソの話だったのが「自分ゴト化」して、このサイトで利用しようかと思ってしまう。癒されるといった情動が前面に出るのも効果的だ。
要するに、それまでの「ケータイ」という「わたしたち」の枠をはずすこと。そのとき、「わたしたち」は霧散し、「マス」が生まれる。
「巨大ビジネス」の視点で見ればそういうことだ。
ここでぼくたちは気づく。
これはつまり、これまでは企業しか産めなかった「マス」ヒット商品が、「わたしたち」にも可能という話だ。
ならばそのとき、(巨大ビジネスではなく)「わたしたち」は、どうすれば「わたしたち」の枠を解消し、より大きなマーケットに出て行けるのか。
そんな「わたしたち」視点で描かれた「わたしたち消費」の物語を紡ぐ楽しみは、読者に残される。

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