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さらば、“近代民主主義”―政治概念のポスト近代革命


さらば、“近代民主主義” 副題にあるように、ネグリがいわば自らの思想を総ざらえしながら、現代における政治的概念を読み解いていく。それが「革命」であるのは、ぼくたちが慣れてきた「近代」の枠組みを破壊し、その後(ポスト)にくる枠組みの構築を目指しているからだ。
ところで、現代の社会を位置づけるのに、近代の延長か(ハイパーモダン)、近代の終焉か(ポストモダン)という二つの立場がある。ネグリはもちろん後者なのだが、彼によると、近代とポスト近代を分かつのは次の3つの事象だという。
一つは、近代の「財」と深く結びついてきた「労働」の変質。すなわち、「非物質的労働」が時代の中で大きな位置を占めるようになっている。たとえば、金融や情報などの認知的労働がそうだが、これらは労働時間ではなく、創造性によって測られる。
二つは、健康であれ、安全であれとぼくたちの生活のすみずみに権力が介入し、ぼくたちを資本のもとへ包摂しようとしていること(資本の利潤のためには健康に生きなくてはならない)。ところがこのとき、認知的労働においては権力が前提としている時間的尺度が通用せず、そこに抵抗が生まれる。(生権力については『<病>のスペクタクル―生権力の政治学』も参照)
三つは、グローバリゼーションだ。ここにおいて、主権をもった国民国家という概念が危機に陥っていると、ネグリはみている。
では、こうした時代にネグリはどのような新しい「民主主義」を構築しようとしているのか。
核になるのは、生権力に敵対する特異性(サンギュラリテ)だ。ひとつのものではなく、それぞれに差異があるという前提。それは、資本による包摂に対して抵抗する主体性から生まれてくる。
ここでグローバリゼーションが、植民地化と違って、従属(依存)から相互依存への移行を作り出したという世界状況が関係する(これが先のポスト近代の特徴の二つ目と三つ目をつなぐ鎖になる)。「特異性の総体」としてのマルチチュードの登場だ。グローバリゼーションのもと、マルチチュードの内部では、主体性(主観的権利)は、単に個人的利益を擁護しようとするのではなく、むしろ協働し協業する。
そして、マルチチュードは内部から<共(コモン)>を生む。<共(コモン)>は、「私」と「公」の分離を拒否する。それは私的なものと公的なものを媒介する第三の道ではなく(近代の枠組みでとらえるものではなく)、資本の管理に対して敵対的かつ代替的なものとして提示される第二の道だ。
こうして読み進めていくと、ネグリが「抵抗」を建設的能力として重要視していることが気にかかってくる。それはどこか、マルクス主義における抵抗、ゲバルト(暴力)を思い起こさせる。
もっとも、<共(コモン)>は単に力による破壊を目指すのではない。それは再建であり、企図(プロジェクト)であり、新たな価値の構築だとネグリは言う。マルチチュードはヘゲモニーを破壊するのではなく、マルチチュードがヘゲモニーなのだ。
マルチチュードがヘゲモニーであるとするなら、<共(コモン)>は、新たな統治形態として決定をくだす必要がある。でも、差異から生まれたものが、どのようにして共通の決定をくだすことができるのか。
多様性を重視するほどに、ぼくたちはひとつの社会に迎えないというアンビバレント。これを乗り越えるには、そもそも決定とは何かに立ち返らなくてはならない。
ネグリは言う。「問題は否定的なものを排除することではなくて、それと並行して肯定的なものを建設することなのである。なぜなら、この二つの線は、実際は、恒久的に交差するものだからである(p210)」と。
ふと、生命の二重らせんがまぶたに浮かぶ。
そう、決定というのは、ひとつを選び取るのではなく、今も互いに交差しつつある二重らせんのようなもの。
ここに、決定という行為の新しい姿が見出される。
ネグリの視点からは、マルチチュードは、それそのものが民主主義の生産なのだ。

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